米国ホスピス・ボランティア体験記
米国に暮らした2年間('93~'95)、私は、がんセンターやホスピスの患者さんたちを精神的に支援するための「傾聴ボランティア」として活動した。長い訓練を受けてから、実際に患者さんが心を開いて話をしてくれるようになるまでには、長い苦しい道のりがあった。けれども死と真正面から向き合う活動の中で、私は次々と素晴らしい人々と出逢い、命の輝きを学んだ。以下は、そのドキュメンタリーである。(分量は、原稿用紙百ページ強。)
「生きている」
米国に渡って2週間。簡素な生活は立ち上がった。息子2人の保育園も決めた。夫は、間もなく始まる2年間の大学院生活の準備に取りかかった。1993年8月、私は、活動を開始した。
初めて住む米国。南部に位置するノースカロライナ州ダーラムは、大学と森だけの退屈な所だと聞いていた。しかし人間が住む場所が、面白くないはずはない。何をするかは分からなかったが、私は夫と同じ位の収穫は得る気だった。海と陸を延々と飛んで来たのだ。簡単には帰れない。
『まあ、見ておれ…』。
下降する飛行機の窓から新天地をにらめば、見えるのは、見事に森ばかりだった。
それでも渡米以来、ボランティア組織の桁外れの量と質は、私の嗅覚を刺激していた。
行く先々、スーパーのカートにまでボランティア組織の広告がある。電話帳の頭には、40種類、約450ボランティア団体の電話番号が、8ページに渡ってカラー写真と共に紹介されている。日本では、公共機関に任せてあることも、この国では、ボランティアによってなされている。
民間団体、「ボランティア・センター」を訪ねて調べてみると、人口20万人のこの街に、約千種類のボランティア活動があった。その中から、興味、特技、専門などに合った活動を細かく選び、無料で紹介している。
市立図書館で募集を知った「ホット・ライン」(「いのちの電話」)のボランティアには、既に応募し、断られていた。社会の問題と援助の仕組みを直に知る好機だと思ったが、訛りの強い南部で、泣きながら掛けてくる電話を外国人が聞き取るのは難しいだろうと言われた。
私は焦っていた。2年は短い。2年の間に学び、収穫する価値のあるものを探して、地図を片手に、街を、広大な大学構内を、毎日車で走り廻っていた。焦りは、私の癖だった。
活動を開始して1週間後、それは来た。大学の新聞の隅に載っていた2行の広告が、私を捕らえて離さなかった。
「がん患者を精神的に支援するボランティア募集。訓練あり。電話にて面接日時相談」
これこそ誰もが必要としながら、日本では得られないものだ。学ぶだけの価値がある。
未知の世界への扉の前で、心地好い緊張感と高揚に、私は、しばし酔った。
「がん患者支援プログラム」という名称の、そのボランティア組織は、デューク大学付属病院内に立派な事務所を構えていた。代表との面接は、志望動機とがん患者に対する考え方を中心に問われた。私には、当時、近親者をがんで亡くした経験はなかった。「組織的な支援の方法を学びたいから」と話した。私の英語は不完全だが、外国人であることも、米国での生活体験が1月に満たないことも、まったく問題にされず、人種も出身国も最後まで問われなかった。
代表のレイチェルは、声に迫力のあるパワフルな50代の女性だった。まだ学生だった自分の娘を1985年にこの病院で亡くし、翌年、この組織を創設した経緯をさらりと説明した。
「当事、たった数人で始めた私達の活動は、今では『全米で最良』と、雑誌に載るまでになっています。モデル組織として、全米から研修に来ますよ。最近では、海外からも。
デュークは、全米でも五指に入る病院。世界最高の医療を提供しています。そこで私達は、患者とその家族に、精神的支援と最良のサービスを提供しているんです。最高の医療と精神的支援。患者と家族が必要としているのは、その両方なんです。長年の希望が実現できたことを、私は、誇りに思っていますよ」
ボランティアになるための訓練は、2日に分け、合計12時間。初日は、講義がびっしりだった。大学病院内のがんセンターで働く医師、看護婦、ソーシャルワーカー、カウンセラーらが講師だ。告知、手術、治療、入退院などに伴う患者や家族の精神状態の変化について説明された。
「告知後はショックで誰の説明も何も記憶できないので、同じことを何度でも繰り返し丁寧に言う必要がある」「『がん』という言葉に過敏になっているので、その言葉は使わない」「匂いに敏感になるので、香水・コロンは禁止」「退院時は喜びよりも不安の方が大きい」「患者と家族は、絶望と希望の間をジェットコースターのように揺れ続けている」など、内容は具体的だ。耳慣れない医学用語と格闘しながらの6時間は堪えたが、収穫は予想以上に大きかった。
一緒に訓練を受けている約15人の中には、白髪の夫婦が2組いた。一人は、杖をつき、歩くのも大変な様子だ。休憩時間、老夫婦に話し掛け、応募の理由を訊ねると、愛想良く答えてくれた。
「やっと時間がある身になったんでね。これからは、地域社会に恩返しをしたいのさ」
がんの治療中で、「この髪、かつらなの」という中年女性や補聴器を付けた若い男性もいた。話してみると、二人とも自然体で気負いがない。周囲の彼らへの接し方もごく自然だ。日本とは違う社会に新鮮味と共感を覚えた。
残りの8人は、医学生という話だった。男女の比率は、ちょうど半々だ。
訓練も後半に入り、ベテランのボランティアという白髪の男性が、ボランティアの具体的役割について穏やかに話し始める。皆、真剣に聞き入っている。
「私達がすることは、ただ患者の傍らにいて、患者の話したいことを聞くだけです。こちらから話すことは、あまりありません。」
<筆者注:「患者」という言葉は、病む人とその家族にとって不快な言葉となりえるが、スタッフの共通語であったので、以後、使用したい。>
心理カウンセラーが続ける。
「聞くことが、すべてです。患者の言葉に対して、良い悪いの判断をせず、無条件に認め、すべてを受け入れ、温かい心で、聞くことに徹して下さい。アドバイスや励ましは、やめて下さい。害になります。「なぜ私が?」と問われても、答えは要らないんです。ただ聞くだけです。」
それだけで、精神的にまいっている人が立ち直る助けになるのだという。それまで1度もそんな風にしたことがなかった私は、衝撃を受けた。
「それは容易ではありませんが、努力と訓練によって可能になります。泣いたっていいんですよ。感情を押し殺す必要はありません。患者と一緒に泣いて、一緒に笑って下さい。救おうなんて、決して思わないで下さい」
訓練の終盤には、病院や企業での訓練を仕事にしているというプロの役者を使ったロールプレイ(劇)があった。
待合室で患者を待つ家族役の役者に、ボランティア役のレイチェルが、そっと話しかけ、徐々に悩みを聞き、自然な抱擁で終わるまでが、流れるように演じられた。『一生かかっても、ああはなれないな』と思ったのが私だけでないことは、いっせいに漏れた皆のため息で分かった。
ため息の次は、いきなり本番だった。初日の朝、病院勤務のソーシャルワーカー兼ボランティア・コーディネーターのジュリーは、にっこり笑って、私にファイルを手渡した。
「これが、今日、あなたが訪ねる入院患者のリストよ。じゃあ、よろしくね」
訓練終了後、診察待合室・点滴治療室・入院病棟・骨髄移植病棟の中から、入院病棟を活動場所に選び、週二日の午前を登録しておいた。慣れるまでは誰かと組むものだと勝手に思い込んでいたが、他のボランティアとの接触は、追加訓練や親睦パーティーの時以外はないという。
「え?! 一人で?! …あの…私は、まず、何て言えばいいんですか」
「『ハロー。ボランティアのナオミです。あなたに訓練してもらいに来ました』っていうのは、どう? この患者はボランティアが大好きだから平気よ。じゃ、グッド・ラック」
この台詞は、当たった。
「訓練! 訓練なら任せてちょうだいよ」
頭を赤いバンダナで包んだ中年の女性患者は、話題豊富だった。日米文化比較などする内に「訓練」は2時間を越えた。私の緊張は、すっかり解けた。同時に、好奇心が次々と頭をもたげ始めた。それをねじ伏せつつ話していたが、『あっ』と思った時には、既に、ぽろりとこぼれていた。
「入院生活って、どんななんでしょうね」
その瞬間、嫌悪が彼女の顔に走るのを見た。
「何も面白いことなんてないのよ」
疲労を理由に、会話は間もなく終わった。『好奇心からの質問は、患者を傷付ける』。それが、最初の訪問で叩き込まれたことだった。そしてそれは、鉄則だった。
しかし、会話は、それきりなかった。
患者は全員個室に居て、家族の付き添いは、通常ない。話し相手もなく、淋しいだろうとは思うが、どの人も抗がん剤などの点滴をしていて、いかにも気分が悪そうだった。苦痛の表情を浮かべて眠っている人もいた。カーテンの閉められた薄暗い病室は、どこも不気味だった。目一杯の作り笑いをして、
「訪問ボランティアの者です。今、よろしいでしょうか」
と、やっとのことで第一声を絞り出すと、半分の人には断られた。残りの半分は、私の訪問の目的を訊ねた。どぎまぎしながら、かつらの貸し出し・図書貸し出し・プロのカウンセリングなどのサービスやがんの種類別に設けられた患者同志の談話会などの紹介をした。次の言葉は決まっていた。
「今は結構です。ありがとう」
おどおどした私の態度に、不快感をあらわにする人も毎回いた。
「私は快調だ。毎日見舞ってくれる妻もいる。君にできることがあるとは思えない。悪いが、一人にしてくれないか」
がっしりした初老の男性から一息に言われた時には、消え入りそうだった。深呼吸をし、気を取り直してノックした次の病室には、若い夫婦がいた。ベッドの上の女性は、私が名乗った途端に、顔色を変えた。
「ボランティアですって?! 私にボランティアが必要だって言うの?! いい加減にしてよ、まったく! 今日は久しぶりに朝から気分が良かったのに、あなたのせいで台無しだわ!」
「お前、そこまで言わなくたって…。あの、すみません。家内は、疲れているんです。どうか、もうお引き取り下さい」
私は、「ごめんなさい」と言うのがやっとだった。
それ以後、病室の扉をノックする時、自分の心臓の鼓動が聞こえた。
役に立っているという実感が皆無のまま、半月が過ぎた。つぶやくような英語も聞き取れないことが多かった。足りない分は、何とか埋めなければならない。私は市立図書館へ通い、がん関係の本を漁った。本は豊富にあり、新刊書も次々と入った。しかも良質で実践的な内容だ。がん患者が直面するあらゆる問題を具体的に説明し、その対処方法を、分かりやすく丁寧に記した本が、いくらでもある。患者の苛立ちも本から理解し、私は救われた。
患者の感情を細かく知るに従って、患者に対する親近感は増した。無知から来る不安は減り、おどおどしなくなった分、患者との会話は増えていった。しかし同時に、抗がん剤の点滴を見るだけで胸がムカムカするようになった。副作用の激しい苦しみは、どの本にも詳しく書かれていた。
同じ夢に繰り返しうなされるようにもなった。末期がんを告げられる夢だ。
医者の声の後、私は、病院の床を転げ回って叫んでいる。子供達が見える。2才の次男には、私の記憶すら残らないのだと思った所で、いつも目を覚ました。
床を転げ回る私は、なぜか子供のようでもあり、私の母のようにも見えた。昔、母が難病で長く入院していたことを思い出し、当時の母の年齢と私の年齢が近いことに、初めて気付いた。「残して逝く」恐怖と「残される」恐怖が混ざり合い、増幅していたのか、私は、夜中に飛び起きては、息を切らし、震えていた。
訪問は、悲壮だった。私は、どの患者も、『それが将来の自分なのだ』と考えた。4人に1人ががんで死ぬ時代だ。自分か身近に、将来来るであろう不幸に備えるのだと思っていた。
毎日昼過ぎ、私は、二人の子供達を車で保育園まで迎えに行き、その足で公園に行くのが日課だった。溢れる自然をたたえた大きな公園がいくつもあった。どこもうっそうと茂った木々が美しかった。深い緑にすっぽりと包まれて、木漏れ日を浴びながら、鳥のさえずりを聞き、走り回るリスを眺めた。子供達は、夢中で遊んでいる。そこでは、いつも救われる気がした。しおれ、うなだれた心が、ゆっくりとだが、立ち上がっていくのを感じた。
『病院にもここに溢れているものが、1つでもあればいいのに…』と、いつも思った。草の匂い、風、光、揺れる一面の緑…。
訪問ボランティアを始めて2ヶ月が過ぎようとしていた。晩秋、患者の死を初めて知った。
まだ30代の女性だ。幼い子供が二人いると、コーディネーターのジュリーから聞いていた。病室を訪ねるたびに、付き添っている母親は老い、患者の身体につながる管の数は増えた。異常なむくみで、ふくれ上がった身体。頭髪も眉もなく、口を開いたままの顔。喉に取り付けられた管から呼吸をしている患者は、ベッドの上に置かれた「もの」のように見えた。
私は、意識のない患者にはもちろん、憔悴し切った母親にすら、何1つできなかった。
「何か、私に、できることはありますか」
『あるはずがない!』と思いながら訊ねた。母親は、私を見ることもなく首を振った。
その病室に、ある日、違う患者が入った。
「ああ。彼女? 死んだのよ。先週の金曜日。気の毒だったわね」
ジュリーの言葉で、『あり得ない』と思っていたことが、『ごく日常的にある』ことを知った。
「死んだ?! 死んだ? 死んだ? 死んだ…」
つぶやきは、止まらなかった。私はそれまで、彼女の容体の悪化と「死」を決して結び付けようとしなかった。現代医療は、不可能を可能にするかのように思っていた。増え続けた管は、彼女を救うためにあるのだと思っていた。
『なぜ人は、死ぬんだろう。なぜあの若さで、あんなに無残に、死ななければいけないんだろう。なぜ彼女なんだろう。なぜ私でも他の人でもなく、彼女でなくてはいけないんだろう。なぜ私達を生かし守っているはずのものが、突然、残忍に人を殺すんだろう』
それはそのまま、8年前に取り憑かれた問いだった。
22才の夏、友人が、ひき逃げで死んだ。それまで、起こることすべてには、意味があると信じていた。すべてを見守る大きな存在を、漠然とだが、信じていた。それは、人の心に敏感だった友人の死と共に、砕かれた。
生活を続けていくために、問うことを止め、年月は過ぎ、私は家庭を築いた。しかし問いは、私の存在の奥底で生き続け、再び私を覆った。
『人は、どうして、死ぬんだろう』
森の街を燃え上がらせた壮大な紅葉の炎が、消えかけていた。あれほど生い茂っていた葉はほとんど落ち、無数の落ち葉が、辺りを埋め尽くしていた。陽の光が柔らかくなっていた。
『死んだ葉だ。命尽きて、朽ちていくだけの葉だ』
私は一面の落ち葉を見つめた。だが、それは、心の芯に染み透ってきた。見たこともない豊かであたたかい風景が、そこにあった。
『…ああ…。人も、同じなんだ…』
落ちる順番は違っても、どのみち、すべての葉が落ちる。次に出る葉のために土にかえり、養分となって、春には新しい生命を育む。自然のサイクルの中では、すべての死に意味がある。
葉は落ちる時に、ものを言わない。あの葉より落ちるのが早い遅いと、泣いたり怒ったりしない。
地球にも、太陽にも、銀河系にも生命があり、いつかは死んでいく。星が死ぬ。獣が死ぬ。木が死ぬ。花が死ぬ。虫が死ぬ。人間も死ぬ。
落ち葉の海に立って、私は、思った。
『人は、死ぬんだ』
生まれて初めて、安らかなあたたかい気持ちで、そう思った。
私は勇気を得て、がん病棟に加えて、骨髄移植病棟の訪問を志願した。そこでは、白血病の患者の他に、進行したがん患者に対する最先端医療がなされていた。骨髄を完全に破壊する程の抗がん剤でがんを撲滅した後、冷凍保存しておいた本人の骨髄を戻して蘇生するという壮絶な治療で、費用は、20万ドルを超える。
「この治療によって、今までは助からなかった患者が生き延びるのです。これは画期的な技術です。この治療に挑戦する患者は、我々が接する患者の中で最も勇気ある感動的な人々だと思っています」
訓練の時に聞いた医師の言葉は印象に残っていた。しかしがん病棟ですら患者は抗がん剤の副作用に苦しんでいた。日本人の医師に訊くと、米国では日本とは比べものにならない程の量を各患者に投与しているという。それを骨髄が破壊する程投与された患者など、想像もできなかった。
手術室を思わせる厚い銀色の扉を3回開くと、そこが骨髄移植病棟だ。廊下にはコンピューターが並び、看護婦がガラス張りの個室にいる患者を観察しては、データを入力している。医療機器や薬がずらりと並んだ病室の中は、空気清浄装置の音が、鳴り響いていた。
この病棟の訪問は、コーディネーターを通さない。毎回、看護婦に訪問可能な患者の部屋番号を訊ねることになっていた。通常4~5人だったが、眠っている場合も多かった。これから治療を開始するという患者やほとんど回復した患者が主だった。
始めて間もないある日、病室を廻っていると、廊下で看護婦の一人に呼び止められた。
「訪問ボランティアの人ね。良かった。そこの患者を訪ねてあげて欲しいの。彼女自身は話せないけど、一緒にいてくれる人がいたら、きっととても喜ぶと思うの。お願いね」
病室のソファーにもたれた初老の女性患者は、比較的元気そうに見えた。ただ、喉から伸びた太い白い管が大きな機械につながり、奇妙だが、身体と機械で一体に見えた。機械の呼吸音は、小さな声などかき消す音量で響き渡っていた。
「…こんにちは。あの…訪問ボランティアのナオミです。具合はいかがですか」
彼女の目が嬉しそうに輝いたのを見た。
けれども、そこからいったいどう会話を続ければ良いのか、私には分からなかった。思いつくままに次々と質問をしてみても、うなずきと、それに続く沈黙が返ってくるだけだ。人工の呼吸音が、沈黙を押し広げていった。
『勘弁してくれ』と思った時、彼女は、空虚な目で窓の外を見た。私は居たたまれなくなり、急いで挨拶を済ませると、病室を出た。廊下にいた看護婦は、驚いて私を見た。
「え? もう終わりなの? 彼女には、一緒に居てくれる人が必要なのに…」
看護婦の目がたまらなかった。『私にはできない。私を責めるのは止めてくれ』。私は心の中で吠え続けていた。
しかし、それが始まりだった。この最先端医療の現場で、私は、毎週、無残な人間の姿と自分の無力を見せつけられることになった。
ある日、ガラスの向こうで、獣のように唸り、ベッドの上をはい回る患者を見た。私は慌てて近くにいた医師にそれを告げた。
「私の患者ではないな」
「じゃあ、誰に言えばいいんですか?!」
「婦長にでも…」
私は婦長室に走った。伝えた瞬間、彼女の表情から、それが無駄だったことが分かった。
「ああ。あの患者ね。いいのよ。彼女はいつもあんなだから。気にしないで」
精神を病んだ患者や死んでいく患者は、常に何人かいた。回復していく患者の病室には、温かい看護婦の笑顔と自信に満ちた医師の励ましがよく見られた。けれども、そうでない患者は、ガラスの外からコンピューターでデータをチェックするだけ。患者は、様々な信号音をたてる大きな機械にぐるりと取り囲まれ、ベッドに置き去りにされていた。声を掛けられることも、肌に触れられることもない。患者は、膨大な費用をかけて世界最高水準の医療処置を受けている。なのにそれは、あまりにも無残な死に方に見えた。
私は、ボランティア・コーディネーターのジュリーに、この状況を改善する方法がないかと相談したが、手応えはなかった。この組織は、大学病院の認可と指導と経済的援助の下に運営されていた。
それきり私は、死の傍観者になった。ガラスのこちら側に留まって、ただ見ている自分が恐ろしかった。だが、病室に入ったところで、救いようのない無力をさらすだけだった。
私は、そこで、異様な目も何度か見た。光のまったくない濁ったガラスの目だ。若い女性の患者に、初めてその目を見た時、私は激しい恐怖にかられた。目を開き、私を見ているのに、生きた人間の気配がまったくしない。深淵の闇が、人の形を借りて座り、私をその中に吸い込もうとしているように感じた。足がすくんで、そばに寄れなかった。
目を病んでいるのではない。心が死んでいるのだ。私にできる唯一のことは、笑顔を見せることだと思ったが、頬はこわばり、声は低くかすれた。病室を出てから、自分が何を言ったのか思い出せなかった。
その厚い殻の奥には、最も助けを必要としている人がいたはずだった。私は、手を伸ばすどころか、近付きもしなかった。底無しの絶望の中に、彼女を置き去りにして逃げた。
完全な無力感に覆い尽くされて、私は病院を出た。子供を保育園に迎えに行く時間だった。
その時、不思議な体験をした。
向こうから走ってくる子供達の身体から、見たことのない美しい光が出ているのを見た。
いったい何かと目を凝らして見つめると、光は消え、子供達が私にまとわりついていた。錯覚にしては、鮮明過ぎる。それは、本当に美しい不思議な光だった。
さっきまで不幸と絶望の世界にいた私の目の前に、健康と希望と成長の塊が走っていた。
私は、死の世界から生の世界へと一瞬にして渡ったのを感じた。子供の持つエネルギーは、それからも繰り返し私を救い上げた。
渡米して4ヶ月目の師走、私は、がんセンターでの訪問ボランティアを週3日続けながら、ホスピスのボランティアに応募した。死と直接向き合って、死から学びたいと思った。無残な死を傍観するのではなく、人間らしい死に携わりたいと思った。
ダーラムにあるホスピスは、在宅ケア専門だった。全米で2千(1993年当時)を越すホスピスのほとんどは在宅ケアで、入院施設のある所はごく限られていた。
面接試験は長く慎重で、その後、3人の保証人を必要とされた。国籍の様々な友人に頼むと、彼らの下に私の性格や行動を調べる調査票が送られた。
ボランティアになるための訓練は、20時間。毎週土曜日の午前を使い、7週間に渡って受けた。病や死や心のケアについての実践的な内容で、その後の活動に度々役立った。
私は、がんのことしか眼中になかったが、エイズについての講義もあった。守るべき注意さえ守れば、感染の可能性はゼロだと習った。しかし私にはエイズ患者のイメージがなく、遠い世界のことに思えた。
受講者は、男女合わせて20人。学生一人と定年退職者一人と私を除けば、皆、仕事があった。弁護士、化学の研究者、ソーシャル・ワーカーなど専門職が多かった。半数近くは、看護婦など医療関係者だった。
ある講師が、自分の父親の自殺について率直に語った後、皆に、志願の理由を訊ねた。医療関係者は、病院での末期医療に疑問を持ち、あるべきケアをボランティアで実践したいと希望していた。残りの人々の口から出たのも病院での死別体験だった。
『もっと違う看取り方があったのではないか』
『死とは、いったい何なのか』
皆、切実な問いを抱えて、そこにいた。
しかし訓練のほとんどは、和やかで自由な雰囲気の中で進んだ。途中、こんな説明があった。
「患者からの遺産相続は、一切認められていません。『あなたに譲りたい』と言われたら、すべてをホスピスに寄付して頂くことになっています」
間髪を入れずに声が飛んだ。
「ボロの中古車一台でも…やっぱり、だめですかね」
ユーモアは、厳しい状況にある人と関わろうとする人間の必須条件かも知れない。
7週間の訓練で分かったことは、ボランティアにマニュアルはないということだ。
「患者は、一人ひとりが、まったく違います。その家族(介護者)もそうです」
講師たちは繰り返した。病状や精神状態は、刻々と変わる。性格、態度、人生観、死生観、抱えている問題…。同じ人は、二人といない。
「どこからがやり過ぎで、どこまでなら足りないのか、それは、誰にも分かりません」
ボランティア・コーディネーターのアンが、凛とした低音の声で言い放った。その言葉にたじろぐ私と、見上げるハードルの高さに興奮する私を、同時に感じていた。
訓練終了の翌月、アンと再び長い面接があり、適性、希望、不安の有無などが確認された。この時点で、辞めるという選択肢が用意されている。
「活動は、可能なんですね。それでは、あなたは、患者に何を与えることができますか」
アンの低い声は、私の腹にずしりと響く。
「私にあるのは、しぶとさだと思います」
「結構です。それが、この活動には、最も必要とされるかも知れませんよ」
その翌月の5月、私達家族は、家の車に乗るだけの荷物を持って首都ワシントンに引っ越した。夏休みの3ヶ月間をそこで研修する夫のためだったが、私にとっても好都合だった。入院施設のあるホスピスを経験する二度とない機会だと思い、必要最小限の荷物の中に、手にしたばかりの訓練終了証を入れた。
アパートと保育園探しの騒動を済ませて落ち着いた所は、緑深い郊外。アパートの敷地内に森があり、小川では、時々ビーバーに似た動物を見かけた。この森がすっかり気に入った。近くの国立公園には雁が群れ、野生の鹿が走るのを初めて見た。
私は電話帳で調べ、首都圏のすべてのホスピスに電話をした。そして、唯一入院施設のある「ホスピス・オブ・ワシントン」に通うことにした。訓練終了証のお陰で、保証人は要らなかった。たった70日間、週3日という例外的な条件も快く受け入れられた。
面接のために初めて玄関をくぐった時、場所を間違ったかと思った。そこは、病院を思わせるものがなく、美し過ぎた。家庭の居間のようなロビー。そこから見える中庭の噴水と緑と溢れる花々。心和むたくさんの絵画と花瓶の花。病室の扉は木目だった。腰の高さのカウンターで囲ったピンク色のナース・ステーションでは、3人のスタッフが楽しげに笑顔で仕事をしていた。余りにも平和過ぎる。ロビーに座る面会者の陰鬱な表情がなければ、ここが、日々人の死にゆく場所とは、とても思えなかった。デューク大付属病院も日本の大病院と比べれば遥かに美しく家庭的だ。けれどもこんな温もりや安らぎはない。人の死ぬ場所が、なぜ穏やかで温かくあり得るのか、私には理解できなかった。
翌週から通い始めた私を、ボランティアを含めたスタッフは、皆、温かく迎えてくれた。
「ここは素晴らしい所よ! ここのスタッフって、全員、信じられない位、…あっ、信じてくれなきゃ困るんだけど…、親切で優しいの。どんな質問にも笑顔で答えてくれるから安心して。気の進まないことは、一切しなくていいのよ。私は患者と話すのが一番好き。電話番が一番嫌ね。私、実はまだ3ヶ月の新入りなんだけど、本当に色々な患者を見たわ。素晴らしい人達をたくさん。ありとあらゆる家族関係もね。ここの仕事、すっごく面白いわよ。あなたもきっと楽しめるわ。私、将来は、ここで死ぬのを楽しみにしてるんだから」
個性的なキルトの服を着たボランティアのぺトリナが、人懐っこい笑顔で話しかける。この朝、ボランティアは、彼女の他に二人。ベテランのボランティアというインド女性、ウマは、リストに沿って仕事を教えてくれるという。哲学者のような顔に民族衣装が映える。白髪を上品に結ったベッツィーは、最近、皮膚がんの手術をしたばかりで、まだ体力が回復していないという話をジョークにして看護婦らスタッフを笑わせていた。
紹介が済むと、守秘義務の誓約書にサインをした。患者のことを口外することは許されない。(注:書くことの許可は、後に得ている。)以後、患者に関するすべての資料を自由に見られる。病状、精神状態、家族関係、経済状態、宗教など、すべての情報がスタッフと共有される。身が引き締まる思いと共に、これは心強いと思う。スタッフとボランティアの信頼関係は強く、上下の関係はない。患者のケアという一点を目指し、皆、チームの一員だと言う理念が、建前でないことが分かる。
誓約書の次には、注射器が来た。ツベルクリンだ。陽性の私は、結核でないことを証明するまでの間、患者との接触を禁止された。レントゲンを撮った保健所のミスで、私は、丸2週間電話と格闘することになった。
「もしもし、ベスよ。ケイトをお願い」
誰が誰に掛けてきているのか、さっぱり分からない。患者か、医者か、看護婦か、ソーシャルワーカーか、ボランティアか…。在宅ケア専門のスタッフも大勢いる。病院、薬局、葬儀屋、教会、保健会社、家族、親戚、ボランティアの問い合わせと、電話は、休みなく掛かってくる。しかも早口だ。ダーラムのスローな南部訛りが、この時ばかりは懐かしい。
私は受話器を片手に何度も目で助けを求めたが、皆、私の対応のまずさに驚きながらも代わってはくれない。『このホスピスの信用に関わるぞ』と思うと頭に血が昇り、ますますしどろもどろだ。
そこへボランティア・コーディネーターのダナが、満面の笑みで優雅に歩いて来た。意を決して直訴したが、あっさり蹴られた。
「すぐに慣れるわ。ホホホホ」
こちらはトホホホだ。やむなく見栄を殺戮し、スタッフ名簿を丸暗記し、3日目には電話恐怖症も大分薄らいだ。元来恥をかくのは慣れている。ダナがいつもの花のような笑顔でやって来た。
「いかが? 電話番、慣れた?」
「何とか大丈夫みたいです。少なくとも、今朝の、今、この瞬間までは」
「ホホホ。あなたって、本当に勇気があるわ」
あの対応を見ながら平気で続けさせた彼女の度胸と比べれば、足元にも及ばない。
ダナは、ホホホの笑顔を崩すことがなかった。絶えることのない笑顔は、スタッフ全員の共通点だった。時間さえあれば、ジョークを飛ばし合って笑っている。穏やかな笑い声は、9つの病室にも、時折届いているはずだった。平均入院日数14日という、9人の患者たちの耳にも…。
だいぶ要領も覚えた3週間目、催促の末に保健所からレントゲンの結果を受け取り、患者との接触が解禁となった。
看護婦のメアリーが、若い男性患者を車椅子に乗せてロビーに連れてきた。
「ほら、きれいでしょう。しばらく中庭を見るのも気持ちがいいと思うのよ。いい?」
彼女はしゃがんで患者に話すと、ゆっくりと腕をさすり、別の病室に入って行った。
『よし、まずハローだ』。私は、精一杯明るい顔で「ハロー」と言いながら患者の正面に回って、息を飲んだ。半開きの目はどんよりと濁り、黄色い膿のようなよだれが歪んだ口からこぼれていた。意識などない。『ここは、ホスピスなんだ。確かにホスピスなんだ』。私は、全身の毛が逆立つのを感じた。
患者相手の最初の仕事は、ダナがリクライニング式車椅子でロビーに連れて来た老女の食事の介護だった。
彼女を見た瞬間、『化け物だ』と思った。病院で受けた抗がん剤のために抜けた頭髪が、ひどくまばらに伸びている。眉毛とまつげはないのに、ひげだけが異様に長い。肉は削げ落ち、健康だった頃の顔が想像できなかった。
私は小さなスプーンの先にオートミールをすくって食べさせようとした。ダナは、すぐに「多過ぎる」と言った。そこで耳掻き数杯程を何回か口に運んだ。それは私にとって、恐ろしくゆっくりとした動きだった。しかし彼女は、顔を歪めて呪文のように呟いた。
「そんなに急がないで。急がないで。急がないで…」
死に向かう人には、死に向かう人だけの時間があるのだと、初めて知った。長い時間をかけて、彼女はやっと3口を口に入れたが、今度は、どうしても飲み込むことができない。
「下りていってくれない。ああ。下りていってくれない。ああ。ああ」
すすり泣くように訴えた。ダナは、彼女の身体を垂直近くまで起こした。それからしゃがんで目の高さを合わせると丁寧に訊ねた。
「リンゼイさん、これでいかがですか」
飲み込むには、更に時間がかかった。食べるということが、あんなにも難しくなるのだ。
彼女の腕は冷たかった。私は自然に腕をさすることができた。すぐ横に座って食べ物を口に運ぶという行為は、人間対人間のコミュニケーションの雰囲気を作りやすい。私はとてもリラックスできた。初め、化け物に見えた彼女も、一緒にいると普通のお婆さんに見えてくる。彼女は食べながら、すぐに眠り込んでしまう。もういらないのかと思って訊ねると「もっと」と言う。そして顔をほころばせて呟いた。
「ああ、おいしいねえ」
その一言が、私の全身を駆け抜けた。
ホスピスでの仕事は、掃除と医療行為以外は、希望すれば何でもさせてもらえた。したくないことは断る権利がある。私は、患者の身体拭き、おむつ交換の手伝い、患者が食べたいと言ったものの簡単な料理など何にでも手を出した。しかし不慣れなので、初めは指導してくれる看護婦にも患者にも余計な負担をかけてしまった。なのに患者も看護婦も笑顔で声を掛けてくれることが驚きだった。
「ナオミ、そんなに頑張らないで、ディーみたいにドンと構えていたらいいのよ。そんなだから太れないのね。お願いだからそれ以上痩せないで。みんな目立っちゃって困るもの」
長身で体格の良い看護婦のメアリーが言う。横で准看護婦のディーが、百キロを越える巨体を揺すりながら笑い、私の肩をポンと叩いた。二人の横では、私は小学生に見える。
2メートル近い身長のエイズ患者、40才のジェシーは、ほとんど口をきかない人だった。
面会を拒否している彼の妻は、電話で言ったという。
「同性愛の罪に、神の罰が下ったのよ」
同性愛は聖書の中で禁止されている。容認する立場ばかりが日本のマスコミで報道されるが、忌まわしい行為とする見方は、想像以上に根強かった。
メアリーと私で、ジェシーのおむつを代えていた時だった。
「歩きたいなあ…もう1度…」
ジェシーが、ぼそりと呟いた。次の瞬間だ。
「歩きましょう! 今、すぐ。ちょっと待って。今、ディーを連れてくるから」
メアリーが明るく言って、準備を始めた。彼が歩かなくなってから、もう何日も経っていた。
大男の彼をベッドから車椅子に移すだけでも簡単ではなかった。ロビーに連れ出し、メアリーとディーが両脇を抱きかかえた。私は転倒に備えて車椅子を構え、彼の後ろに付いた。ジェシーは、硬直した足を引きずりながら、時間をかけ、ロビーを2メートル程歩いた。メアリーが訊いた。
「どう? 気分は?」
「ああ。気持ちがいいよ。すごく、いい」
初めて見るジェシーの笑顔に、私達は顔を見合わせて笑った。心の底から笑った。
スタッフは、意識のない患者にも笑顔でよく話しかけた。入院以来1度も反応のなかった患者が、ある日突然返事をしたり、微笑んだり、話し始めて、私は何度も飛び上がった。
それまで話し好きだった患者が、突然、誰とも話しをしたくないと言いだしたこともあった。皆、心配したが、希望通り、こちらからは話しかけるのを止めた。その患者は、ボランティアのウマにだけは話しかけ、「なぜ自分は生きているのか」と訊ねたという。私は、たまらない気持ちになってダナに言った。
「あのままでいいんでしょうか? カウンセラーは、呼ばないんですか」
「うつは、死んでいく人間には、自然な感情よ。尊重しなくては。ただ、彼が、心の中で誰かを必要とした時には、いつでも応えられるように、心の耳は、澄ませていてね」
人間の自然な死に方など、知らなかった。悲しいことを悲しむ気持ちを、人にも、自分に対しても、尊重した経験はなかった。
エイズ患者は、平均して3分の1を占めると初日にダナから聞いていたが、その割合は変わり続けた。ほぼ全員がエイズ患者の時もあった。私はこのホスピスで、初めてエイズ患者と接した。訓練で得た知識によって、感染の不安はないつもりでいた。
ある朝、若いエイズ患者の部屋に入ると、ひどい鼻血でシーツを真っ赤にしていた。
「大丈夫ですか?! 今、看護婦を呼びます!」
「いや、いい。いつものことさ」
そう言いながら、鼻からはまだボタボタと血が出ていた。私は、ぞっとした。その血に両手で触ったところでエイズがうつるわけではないと知りながら、エイズウイルスを含んだその血に怯えている自分を感じた。
「悪いけど、そこのガウンを取ってくれないかな」
椅子に置かれたガウンを持ち上げた瞬間、手に触れた部分の、冷たいぬるっとした感触に、私は泣きたくなった。
患者との接触のたびに石鹸で手を洗うことは、自分のためにも、次に接する患者のためにも義務付けられていた。私は、ぬるりとしたものに触れた手を念入りに洗った。洗いながら、自分の中に見付けた偏見が、私をあざ笑う声が聞こえる気がした。
「誰だって、そんな血を見たら恐いさ。偏見なんかじゃないよ」
夫は私を慰めた。カポジ肉腫のためにアザだらけに見えるエイズ患者の身体を素手で拭くのは平気だ。感染の危険はないからだ。けれども、その手で子供に触れたくはないと思う。苦いものが全身に広がるのを感じていた。
61才のがん患者、ローズは、入院以来うめき声を響かせていた。前の病院での処置が悪く、ここに来て初めて痛みを止める治療を始めたが、それが効き始めるには数日かかるのだと、看護婦のキャリーが説明してくれた。
花瓶の水を取り替えに部屋に入った時、そのまま逃げ出したくなった。目をむいてうめく姿は、人間とは思えなかった。頭蓋骨に干からびた皮が、ぴたりと張り付いている。ボールのような巨大な眼球は、頭蓋骨の大きな穴から、今にも転がり落ちるかに見えた。荒い一息ごとに、手負いの獣のように激しくうめいている。
『ああ、ホスピスでも、地獄の中に死んでいく人がいる』
私は顔を背け、足早に部屋を出た。
しばらくしてメアリーが、いつもの温かい笑顔で何気なく言った。
「9号室の患者に鎮痛剤を打ったんだけど、苦しそうだから様子を見てきてくれるかしら。誰かがそばにいて、手を握っていたら、彼女もきっと落ち着くと思うのよ」
「9号室?!」
ローズの部屋だ。『断ることもできる』と即座に思った。しかしすぐ思い返した。『とにかく、まず、やってみよう』。やってみなければ、何も分からない。
私は病室の前に立った。うめき声の中で、大きく一息吸った。やっぱり恐い。『助けてくれー!』と、心の中で絶叫しながら部屋に入った。本当にそばに近寄れるのかどうかすら、私には分からなかった。
「こんにちは。気分はいかがですか」
私は一気に歩いて、ベッドの脇に立った。ローズは私を見た。驚いた。反応があるとは、まったく予想していなかった。
『この人には、意識がある。この人は、人間だ』
その瞬間、恐怖は消えた。
「ひどく痛みますか? 大丈夫ですか? 手を握ってもいいですか?」
ゆっくりと訊ねた。彼女は、みるみる人間の顔に戻り、すがるような目で私を見つめて、微かにうなずいた。
手はとても冷たく、蛙のように湿った感触があった。私は、その手をそっと握り、腕をさすりながら話しかけた。
「痛いですね。苦しいですよね。でも、すぐ薬が効きますよ。もう少しで楽になりますよ」
ローズは、そのまま人間の顔で安堵の表情を浮かべた。うめき声も急に小さくなった。
けれども、安らかな時間は、長くは続かなかった。見る間に目が何倍もの大きさになり、大きくうめき始めたのだ。ローズは、ふと人間の顔に戻ったり、目をむいたりを繰り返した。私は手を握っていた。どんな顔になろうと、私は、人間のローズと向かい合っていた。
メアリーが来て、再び注射をした。
「分かるわ。苦しいわね。楽になるから」
と言いながら、こめかみの部分がえぐり取られたような額や肉のない頬をなでて出て行った。ローズはもう人間の顔に戻らなくなった。『彼女を楽にする方法はないのか』と思うと、喉が熱くなった。けれども、私は、彼女の見せた安堵の表情に満たされていた。それは、身内ではなく、他人にのみ許される幸せな自己満足だと思った。
2日後、まずローズの部屋へ行くつもりで来ると、病室名簿に名前がなかった。あの翌朝10時に亡くなったという。うめきは、私が帰ってから4時間後に治まり、最後は安らかだったと、メアリーが、微笑みながら伝えてくれた。
33才のエイズ患者、ロバートは、見舞客の多い人だった。1週間前までは、車椅子に乗ってロビーで来客と話す姿を見かけていた。
「ロバートが、もう良くないね。危篤だよ」
ディーが私の耳元でささやいた。花の水を代えに部屋に入った私は、彼の呼吸が普通でないことと、彼が一人きりでいることを知っていた。私は看護婦達に訊ねた。
「一人で死んでいくのは、普通のことなんですか」
「普通は家族が来るわ。家族が来るまでの間は、スタッフの誰かが付いているの。決して一人きりでは死なせないわ。もちろん、あなたが付いていてあげてもいいのよ」
その時、私は、どうしても付いていたいと思った。一人で死んでいかせたくはなかった。
病室は明るかった。ロバートは、口も目も半開きにし、鼻に酸素の管だけを当てていた。呼吸は少しも苦しそうではなく、ただ独特の音をたてながら、不規則に続いていた。開いた口から見えるイグアナの背中のような舌だけが、痛々しいと思った。骨と同じ太さの左腕には、新しい白いテディーベアが、固く抱かれていた。
私は、なぜか少しも恐さを感じなかった。ただリラックスして、意識のない彼の脇に座り、手を握って話しかけ始めた。ホスピスはいつもと何も変わらず、静かで、穏やかだった。外は雨が止み、夏の陽が出てきていた。窓から見える緑が、きれいだった。
机の上には、彼がいつも聞いていたモーツアルトのCDと開いて伏せた本があった。花屋だった彼が愛した花は、たくさん飾られていたが、どれも盛りを過ぎ、今、枯れようとしていた。
「ロバートは、その詩集が好きだったから、読んであげてもいいわよ」
様子を見に来た看護婦が言った。うつ伏せに開かれたページは、母の愛と自然の美の永遠を詠ったものだった。独身の彼は、エイズという病気のために両親から見放されたと苦しんでいた。私は、親戚の人が来るまでの1時間半、彼の手を握りながら、静かに詩を読んでいた。聞こえていたかどうかは、まったく分からない。意識は1度も戻らなかった。ただ、1度だけ私の手を握り返した時があった。
安らかな死に方だと思った。ローズの苦しみを見た後で、この安らかさは、特別なものに思えた。両親がそばに付いていないことだけが、気の毒だった。
彼は苦しんでいない。痛みもない。多くのエイズ患者の最期にある高熱もない。ただ静かに、ゆっくりと死に向かっていた。何もかもが、とても自然に思えた。33才の死。それは、悲劇に違いない。けれども、私は安らかな気持ちで手を握っていた。手を握りながら、彼が『消滅』ではなく、次の世界への自然な『旅立ち』の中にいるのだと実感した。
ロバートの手は、どんどん冷たくなっていった。頬の赤みも消えた。
昼近くなって、親せきという3人の中年男女が来た。緊張、困惑、不安、恐怖が入り混じった表情で部屋に入って来た。私は軽く一礼をして部屋を出て行った。
ホスピスを一歩出ると、真夏の日差しが、私を貫いた。思わず閉じたまぶたが、熱く、まぶしい。全身の皮膚を突き通って、信じられないほど強く、熱いエネルギーが、私の中に飛び込んでくる。
『宇宙から降り注ぐ生命の光だ』。
木々の葉一枚一枚が、草花一本一本が、その光に応えてきらめいていた。
『生きている』
全身の細胞が、叫んだ。細胞は、光に溶けて広がっていく。
『この光の中に、生きている。すべてのいのちが、今、一緒に生きている』
私は震えた。同じ時を生き、同じ空気を吸う、人間という人間に抱きつきたかった。
『皆、仲間だ。限られたいのちを、一緒に生きる仲間だ』
呆れるほど単純だが、突き上げてくる激しい歓びに、私は、身体が弾けてしまいそうだった。
家に帰って、ロバートを想った。自然な死。自然な時の流れ。自然な呼吸。
病院にあんな死はなかった。機械だらけの部屋。管だらけの身体。何もかもが人工的にコントロールされ、すべては慌しい。
死ぬことを、惨めな敗北と決めつけられ、死ぬことを認められず、許されず、ただ身体だけが生かされ続ける。もの言わぬ患者の身体は、醜くむくみ、温かい死体に見える。ロバートは、痩せてはいたが、少しも醜くはなかった。
夕方から降り始めた雨を、私は、ずっと眺めていた。ロバートの死を悼む雨だと思った。その時、愛犬の死を、突然、鮮明に思い出した。
私は、幼児だった。夏の雨の夜に、家の玄関で死にかけていた犬は、ロバートと同じ呼吸をしていた。
人も犬も死んでいく過程は同じなのだ。人の死だけが、特別に惨いものでも恐ろしいものでもない。
私は、羊水に浮かぶ赤ん坊のように、安心して眠りについた。
「ねえ。ポールが死にかけているんだけど、そばに付いていたい?」
ロバートが亡くなった翌週、ディーが私に耳打ちした。エイズを病む41才の男性だ。私は、即座に言った。
「イエス」
ポールは、ロバートと同じ呼吸をしていた。意識はないようなのに、目を大きく見開いて、何かをじっと見つめている様子だった。声をかけ、反応のないまま手を握ると、ローズの時と同じように、どきっとするほど冷たく、湿った感触があった。彼の目を見てゆっくりと言った。
「私が一緒にいますからね。一人じゃないですからね」
彼も妻や家族と不仲になっていた。
ポールは、時々視線をはっきりと動かした。そのたびに、何かして欲しいことはないか、顔をのぞき込んで訊いたが、反応はなかった。彼は、何度か私の目をじっと見つめた。『何が起こっているのか、理解できない』という表情に見えた。
私はハミングで子守唄を歌い始めた。そんなに真剣に何かを見つめていないで、静かに目を閉じて眠ったら楽だろうと思った。歌った時、彼の表情が、少しだけ和らいだような気がした。『聞こえているのだろうか…』と思いながら、知っている聖歌をハミングした。彼は、その時、確かに安らかに見えた。
それから彼は、色々な反応を示し始めた。時々顔を歪めたり、何度も何かを言いかけた。時折言葉は出たが、聞き取れなかった。私は、話しかけ続けた。1度だけ、「苦しいですか」の問いに「ノー」と答えた。
やがてポールは、盛んに手を動かし始めた。何かを掴みたいような、起き上がりたいような動きを止めなくなった。それが死の前に現れる兆候の1つだとは、その時には分からなかった。私は部屋を出て、メアリーにその動作を伝えて指示を仰いだ。
「苦しいんでしょうか」
「分からないわ。どうかしら」
話しながら二人で部屋に入った時、ポールの表情は変わっていた。目は半開きで、既に何も見つめてはいなかった。『ああ、遠くに行ってしまった』と思った。
「痛むのね」
頭蓋骨の形をしたポールの額にキスをし、頬ずりをしながらメアリーが言った。
「もっと良い所へ行くのよ。神様が、ポールをお召しになるの。私達は、皆、神様のものよ。恐がらないで。リラックスして」
ポールの表情は、急に穏やかになった。聞こえていると、私は確信した。
脈も血圧も測ることなく、メアリーが部屋を出て行ってすぐ、彼の呼吸が変わった。訓練で習った通りの「水から出た魚の呼吸」だ。痛みや苦しみは、消えたように見えた。呼吸は何度も止まった。『メアリーを呼ばなければ』と思った時、また呼吸が止まった。何度名前を呼んでも戻らない。私は部屋を出た。目の前にあるナース・ステーションのメアリーに、ジェスチャーで『息をしていない』と伝えた。
「呼吸をしていないですって?!」
メアリーが驚いた声で呟き、すぐに二人でポールの所へ戻った。
部屋に入ってすぐ、彼は、奇妙に甲高い音と共に息を吹き返した。
「ポール、大丈夫よ。恐くないわ。平和で安らかな所へ行くの。苦しみも痛みもない所よ。そこで、あなたは、完全な身体になるの」
メアリーが手を握りながら穏やかに言った。ポールはそのまま息を止めた。全身の筋肉が縮み始めた。手がひしゃげ、顔が変形して別人のようになった。
『今、できることは何?!』
心が叫び、次の瞬間、私は両手を合わせていた。無事に死ねることを、祈っていた。全身をひしゃげて、命がけでこの
世に渡って来ようとする赤ちゃんの無事を祈るように…。
何十秒だったのか、数分だったのか。長い時は、終わった。ポールの顔が、ゆっくりと弛緩していった。ぎゅっと閉じられた目は半開きになり、口が徐々に開き、そして止まった。それきり、何もかも一切が、動かなくなった。
メアリーが聴診器を胸に当て、酸素の装置を止めた。ポコポコという音が消えて初めて音の存在に気付いた。音も、部屋の空気も、光も、変わった気がした。
メアリーは、ポールの鼻から酸素の管を外し、目を閉じさせようとしたが、まぶたは動かなかった。ワセリンをまつげに塗ったが、それでも閉じず、半開きのままになった。床ずれを防ぐための4つの枕を二人で黙って外した。メアリーは引出しから出した彼のバスタオルを丸めて、顎の下に当てた。カチンと歯の音をたてて口が閉じた。足首を組ませ、シーツを掛けた。
『この人には、いのちが、ないのか? この人は、死体なのか? 物体なのか? 今までここにいたポールは、どこに行ってしまったのか?』
頭の中で目まぐるしく考えながら、病室を出た。ナース・ステーションからゆっくりとディーが来た。
「亡くなったの。たった今」
私が言うと、ディーは、その大きな身体で私を抱きしめた。彼女の身体は、温かかった。
「良かったね。最期にそばに付いていてあげられて」
私は、突然、子供のように泣き出した。ディーは私を強く抱きしめたまま優しく話し続けた。次いでメアリーが、ボランティアのベッツィーが、次々と私を抱きしめては、色々な言葉を掛けてくれた。ポールの長年の苦しみは終わったということ。死ぬ時に一人ぼっちでなかったことが、彼にとっては、慰めになったのだということを。
「人の死を看取るって、辛いことよ。とっても。…でもね。しないではいられないのよ」
メアリーの声が、胸の深い所に響いた。
家に帰って、夫の顔を真近に見た。骨の形が分からない。肉がいっぱい付いている。腕に触る。弾力性がある。『ああ、ロバートもローズもポールも、この弾力性がなかった…』。
夫と子供達は、動き、話し、笑い、食べた。私は、ただそれを見つめていた。
その直後、以前から予定していた家族旅行に出かけた。偶然とはいえ、その時、しばらく死から離れられるのは、ありがたかった。
それまで私は、嬉々としてホスピスに通っていた。けれども、雄大な自然の中で家族と過ごし、ホスピスのことも患者のことも完全に忘れた時、私は、全身の血が入れ替わるのを感じた。
「この仕事には、気分転換が重要よ。心から楽しめる趣味はある? まとまった休みを取ることも大事なの。そうでないと、誰も続かないから」
看護婦の言葉が、身体で分かった。
新鮮な気持ちで2週間ぶりにホスピスに戻ると、患者は二人を残して入れ替わっていた。新しい患者は、またそれぞれに重い現実を背負っている。エイズであることを家族にまで隠し通している中年の男性。夫が別の病院で亡くなったことを知らされず、夫の安否ばかりを心配している年配の女性。顔の筋肉をぴくりとも動かさずに、私に話しかける若いエイズの男性。彼は、他のボランティアに「僕は、一体、何という生き物なんだろう」と言ったという。愛犬を連れて入院した初老の男性は、全身に隈なく手術の跡がある。常時付き添う彼の献身的な妻は、病室では笑顔しか見せず、ロビーではいつも泣いていた。
3日に一人が死んでいく場所で、私は、死のプロセスを知った。「歩けなくなる。食べられなくなる。意識を保っていられなくなる…」。どんなに苦しんでいた人も、最期は苦痛が消え、静かに死んでいく。
まだ歩けた人が、落胆する出来事の後、突然死んでしまったこともあった。「死にたい。死にたい」としか言わなかった人が、危ない状態のまま1週間も生き続けたこともあった。ロバートはあの不規則な呼吸を2日間も続け、ポールは家族に連絡もつかない間に急死した。いのちは、予測ができない。
エイズ患者は、見ただけで分かるようになった。やせ方や年齢が若いことでも予想はつくが、独特の暗い刺のある目をしている。エイズへの偏見と差別は激しい。精神的拷問を受け続ければ、誰でもあんな目になるのだろう。
31才のマイクもそんな目をしていた。屋外のテラスで食事をしていた彼に、
「何か、必要なものはないですか」
と訊ねた時、彼は、無表情に言った。
「ボティー」
塩とか水とかいった答えを予想していた私は、その意味を掴みかねて聞き返した。
「身体! 新しい身体だよ! こんなんじゃない、まともな身体をくれよ!」
私は何も言えないまま、彼の目を見た。暗い、刺すような目の奥に、悲しみと怯えが映っていた。
2日後、いつも通りテラスで食事をする彼は、用事を済ませて急いで屋内に戻って行った看護婦を後ろから睨みつけた。
「いつだってああだ。もっとゆっくりやって欲しいよ。俺から逃げるみたいに離れて行くんだ。あんな風にされたら、誰だって何も言えやしないじゃないか」
「そうですね。彼女は何でも完全にやろうとする人だから、ちょっと忙し過ぎるのかも…。
でも、彼女、本当は良い人なんですよ」
私は軽くそう言い、隣に座って良いか訊ねた。彼は微かに笑ってうなずき、機嫌良く色々話し始めた。大学での専攻やスポーツのこと、ドイツに留学していたことなどを誇らしげに語った。彼にも健康な時と、親しかった人々と、将来の
夢が、かつてあった。
2日後、彼は車椅子の上でノートに向かっていた。
「俺の遺書なんだ。あ、これで筋が通るかな」
手渡された遺書は、震える手で書かれた癖字のため、まったく読めなかった。
「ボランティアに、元弁護士という女性がいますよ。見てもらうように頼んでみましょうか」
彼の目が輝き、笑顔で握手を求めてきた。握手をしながら、私も嬉しかった。
「早く仕上げたいんだ。もう時間がないんだよ。医者は『長くない』って、しつこく言うんだ。俺が死んでから家族がもめるなんて、耐えられないからね」
その3日後。衰弱が進み、既に車椅子に座ることも難しくなっていた。もう笑顔を見せることもない。話をしていても時々ぼんやりし、記憶も混乱している。遺書の件については、常勤のソーシャルワーカーの手配で、現役弁護士がボランティアで来ることになっていた。
「弁護士は、いつ来ることになったんですか」
「知らないな。スタッフは、皆、忙しいから、多分そんなこと忘れてるんだろ」
「そんな…。今、確認してみますから」
「いや。いいよ。1度言ってくれたんだろ。皆、忙しいんだ。いいよ」
確かに、皆、忙しかった。患者の要望は、一人一人違う。
「あのレストランのあの料理を一口でいいから食べたい」
「妻とよく行ったあの場所へ、死ぬ前にもう一度だけ行きたい」
「家を出たきり行方不明の息子と和解してから死にたい」
そんなあらゆる希望を叶えるために、スタッフと何人ものボランティアが特別チームを作って対応した。準備を整え、やっと希望の場所に出かける日になって、突然、「行く気がしない」と言った患者もいた。
「黙ってそばに付いていて欲しい」
「手を握っていて欲しい」
「話を聞いて欲しい」
そうした個々の望みを、できる限り叶えようと、皆が対応していた。しかしそのすべてに百パーセント応えられる訳ではない。急激に衰弱していく多くの患者の様々な想いは、患者の心の底に沈殿していく。多くを語らないまま、ほとんどの患者は1~2週間で静かに死んでいく。患者のケアとは、いったい何なのだろうと思う。
弁護士はその日の昼に来た。若さと知性に輝く青年だった。その弁護士の胸の厚さも良く通る声も、ホスピスでは異様に目立った。自分と同年代のあの弁護士を見て、マイクは、傷つかないだろうかと思った。
3ヶ月の期限は過ぎ、ダーラムに帰る日は、翌日に迫っていた。私は患者全員にお別れの挨拶に行ったが、目覚めていて意識もあったのは、72才のヘンリーだけだった。他の患者同様、苗字に「さん」付けで呼んでいたが、心の中ではファースト・ネームで呼んでいた。
彼は、羞恥心に耐えながらおむつを代えられる時にも、唯一食べられるゼリーを口に運んでもらう時にも、心を込めた礼を言わない時がなかった。出にくい声を絞り出して、丁寧に「ありがとう。感謝します」と言われるたびに、寝たきりの彼が、私や皆に与えるものの大きさを思った。その意味で、彼は介護者と同等の立場に立っていた。そして、それは、すべての患者に言えることだった。例え意識がなくても「人間が生きて、死ぬ」という事実を、本に書かれた何万の言葉よりも明確に、彼らは教えてくれていた。
ホスピスに通いながら、私は毎日が透き通っていくのを感じた。何が大切で、何が無駄か、急にはっきりと見えるようになった。複雑で困難だと思っていた人生は、シンプルで歓びに溢れていることを知った。朝、目を覚ますことが、料理をし、家族と食べることが、木々の間を歩くことが、花を見ることが、心から幸せで、かけがえのないことに思えた。私の毎日は、それまでのいつよりも明るく輝いていた。
「身体に気を付けて…。皆、働き過ぎだもの」
スタッフらには、それだけをやっと言えた。
「何たって、皆、仕事中毒患者だから。そう簡単には、治んないよね」
腰痛持ちのディーが言い、皆で笑った。一人一人が交代で抱きしめてくれた。ダナが「感謝の印に」とホスピスのロゴの入った白いマグカップをくれた。私には宝物に思えた。
通い始めた頃には理解できなかったホスピスに溢れる安らぎの理由も、私は理解した。それは、死とその過程を、生の一部分として受け止め、尊ぶホスピスの理念と、それを体現するスタッフが生み出していたものだった。
生きて、病み、老い、死ぬことは、自分を含めたすべての人間が、遅かれ早かれ必ずたどる生の自然な道のりだ。その道のりを、患者と家族が、可能な限り快適に、意味あるものとして生きることができるように手伝うのがホスピス・ケアだ。人間としての尊厳と人間関係は何よりも尊重される。面会は24時間歓迎されるが、すべての来客と患者への電話は、患者の承諾を得てから取り次がれた。家族らだけの看取りをスタッフは邪魔しなかった。
ホスピスでは、ありのままのその人を尊重する。頑張らなくていい。病気でいい。老いていていい。障害があっていい。心や身体に弱いところがあっていい。そのままで、その人は、かけがえがない。
それは私達の日常を支える価値観と正反対だ。何をどれだけできるかで計り、計られる生活から抜け出し、ホスピスで働くことは、私自身の安らぎだった。
私は新たな気持ちでデュークがんセンターに戻った。米国生活は、残り1年だ。
訪問ボランティアの再開と同時に、私は、自分自身の変化に気が付いた。患者が様々な悩みや苦しみを私に話すようになったのだ。死への恐怖感、嫌悪感という壁が崩された時、患者は、「病人」ではなく「人」として私の目の前にいた。私は患者と一緒に、より深く死と向き合うようになった。そしてそれは患者に留まらなかった。
私のワシントンでの経験を深く特別な想いで聞いた一人の女性がいた。
「エイズの患者さんを…あなたが…」
彼女は、歓喜と苦悩の混ざる目で私を見た。その目が、急死した彼女の息子さんの病名を告げていた。彼女は、もう以前のようにそれを隠そうとはしなかった。
私達は、留学生と市民との交流プログラムで知り合った。息子さん達は独立し、老夫婦だけで森に面した美しい家に住んでいた。気さくでいて品のある夫婦だった。
渡米した夏、はち鳥の来る家のベランダで、夕食をご馳走になった。軒に下げた蜜を吸う、その妖精のような姿を見て、夫妻は子供のようにはしゃいでいた。婦人の流れるような言葉は心に残った。
「庭に倒れたあの鳥を、そっと拾い上げたことがあるの。掌の中のその軽さといったら…。そこに生命があったということが魔法のほうに感じるほど、その重みは微かだったの」
秋には、夫妻を私達の小さなアパートに招いた。「今年のクリスマスには、サンフランシスコに住む息子を久しぶりに訪ねるのだ」と嬉しそうに話していた。
その息子さんが、1月に急死したと聞いた。伏せられた病名で、エイズを思った。
「残された者は、生き続けていくしかないんだよ」
ご主人の言葉に、やせて小さくなった婦人は何度もうなずいていた。
ワシントンから戻ると、夫妻はエイズ患者を支援するボランティア活動を始めていた。私達を夕食に招待した晩も緊急連絡用のベルが鳴り、夫妻はエイズ患者の家へ車を走らせた。夫妻が戻るまで、私達家族は、少々緊張しながら留守番をすることになった。ベルは結局、誤動作と分かり、おあずけの夕食は、間もなく始まった。
私は夫人に頼んで、後日、彼女の通うエイズ患者の施設に案内してもらった。森に面した一軒家を買い上げて使っている末期エイズ患者のグループ・ホーム、市が作ったエイズ患者とその家族用の低家賃アパート、開所寸前のエイズ患者用ホスピスの3ヶ所だ。
スタッフはどの施設でも熱心だったが、どこか悲壮さが漂っていた。人手も足りない様子だった。患者の前では笑顔を絶やさないスタッフも、事務所に入ると厳しい表情に変わった。
「一番の問題は資金集めなの。がん患者はいいわ。寄付はいくらでも集まるもの。でもエイズ患者には冷たいものよ。偏見、無理解、無関心。他人事だと思って、関心すら示さない人がほとんど。でも、諦めないわ。あらゆる方法で啓蒙活動を展開していくつもり」
がん患者を支援する活動には、確かに信じられないほどの寄付がある。妻を亡くし、5軒の家を売り払った全額を寄付したという人にも会った。ダーラムのショッピング・センターで、特別イベントとして、ホスピスへの寄付金集めをした時にも、私の予想に反して、次々と人が来ては2千円以上の寄付をしていった。赤い羽の十円募金の弊害を初めて考えさせられた。
施設からの帰り道、婦人は、車を運転しながら息子さんのことを静かに語った。長い間を置きながら語られる言葉を、私は、心の芯で聞いていた。
「あの子が同性愛者だと知った時は、エイズだということ以上にショックを受けたわ。受け入れるには、長い時間が必要だった。人は、同性愛者を『自分で求めてそうなった』と言うでしょ。私もそう思っていたの。でも違うのね。そう生まれてしまったのよ。そう生まれて一番苦しんでいるのは、本人なの。私は、それに気付いてあげられなかった…。
サンフランシスコには同性愛者のコミュニティーがあって、エイズ患者を助け合う組織が発達しているの。皆、本当に良くしてくれたのよ。家族でもできないような介護を、同性愛者の人達が、ずっとしてくれたわ。それを見ていたら、私の偏見が間違っていたことが、よく分かったの。『神の教えに背く罪深い人達だ』なんて…人間は、残酷ね。
私、あの子がホスピスで亡くなる時、ずっと手を握っていたの。亡くなる前、あの子の魂が…そう、魂が、あの子の身体から離れていったのが分かったの。昇っていくのを感じたのよ。それから息が止まった。とても静かに…。眠りについたようだった。安らかな、安らかな死だったわ。私、その時、あの子が、あんなにも安らかに天に召されるのを見て、悲しみよりも、感謝を感じたのよ」
寒暖の変化が極端なこの地で、汗ばむような11月の午後、ホスピスから3人目の患者の紹介が来た。最初の二人は、それぞれが入院している施設を訪ねた時、既に昏睡状態だった。天文学の教授だという患者は、その朝、容体が急変したのだと、看護婦が教えてくれた。私は患者の脇に座って、黙って1時間ほど手を握り、帰った。家族はいなかった。
間もなくホスピスから死亡報告の電話を受けた。夕食の仕度の手を止めて取った電話だった。受話器を置きながら、死が、私の日常の中に一つの席を占めたことを知った。
郵送された資料を見ると、今度の患者は93才の女性。アニーという名だ。ホスピス・ケアを必要とする人の年齢に上限はないのだなと思う。心臓病だが、現在の状態は良いとある。私は小さく縮こまった孤独な老婆を思い浮かべた。
『私が悩みをきいてあげる。私ならきっとできる』
ワシントンから戻って以来、がんセンターで様々な患者の悩みを聞いていた。訪問ボランティアとして初めて有能感を持てた私は、その時、自信たっぷりに思ったのだった。
アニーは、低所得者向きの療養所に居た。ホスピスのスタッフは、依頼を受け、患者の自宅やこうした施設に通う。患者とその家族の要望に添うボランティアの仕事は多様だ。
家族に代わって家事、子守り、犬の散歩をすることもあるという。介護に疲れた家族を娯楽のために外出させることも重要な仕事とされている。気分転換なしに介護を続けていくことは無理なのだ。
秋晴れの日、私は療養所に向かって車のアクセルを踏んだ。それは殺風景な平屋の建物だった。背筋を伸ばして簡素なロビーを通り抜け、廊下を曲がった所で、突然異臭が鼻を突いた。あらゆる汚物を混ぜたような匂いに息が止まる。目の前に続く廊下は、車椅子の老人で一杯だ。よだれを垂らしながら宙を見る老人達。徘徊する老人達。どの病室も開け放してあり、ひどい状態の人々が見えた。『痴呆でなければ耐えがたい場所だな』と思いながらアニーの部
屋を探した。
薄汚れた二人部屋に、彼女の名札があった。音しか出ていない壊れたテレビの側面に、アニー・ジョーンズと大きくマジックで殴り書きがしてあった。その前に車椅子で座っているのが本人らしい。思ったよりもしっかりしている。開いた扉を通って、私は思い切り明るく挨拶しながら部屋に入った。
アニーは車椅子からぼんやりと私を見上げ、急に目つきを変えた。私は自己紹介し、これから毎週訪ねることを説明した。しかし彼女は眉間に深いしわを寄せるだけで、ただ苛立たしそうに私を睨みつけた。『家族が勝手に手配しただけで、本人は、ホスピス・ケアを望んでいないんだろうか』。私は戸惑いながらも、横に座って会話を続けた。アニーは顔を背け、返事もしない。参った。
とにかく1時間は居ようと決めたが、時計の針は文字盤にへばり付いて動かなかった。やっと針が一周した時は、やれやれと思った。彼女の肩に軽く手を置いて、私は満面の笑みを作って挨拶した。
「じゃあ、今日は、これで帰ります。また来週来ますからね。お大事になさって下さい」
その時、彼女が、初めて口を開いた。
「あんたと居ると、へどが出るよ!」
バケツ一杯の氷水が、頭の上から降ってきた。血が冷えていくのが分かるのに、目から喉がカッと熱い。それが余計に情けなかった。
『バカ! 泣くな!』
心で怒鳴りながら車にたどり着き、シートに座って深呼吸をした。頭に酸素が届いた途端、訓練で聞いた言葉を思い出した。
「患者の怒りは、不安や悲しみの屈折した表現である場合があります。鬱積した感情を表に出すことは、患者にとっては良いことなのです」
本当に「良いこと」だったのかどうかは分からないが、ともかく私は落ち着きを取り戻し、エンジンをかけた。
車を走らせながら、私は訪問の内容を頭の中で反すうしていた。アニーの浴びせた水で、私は目を覚ました。私の傲慢さにアニーは怒ったのだ。医療者でも何でもない、ただの素人が、患者を十把ひとからげにして救ってやるような気でいたのだ。
アニーに会った必然性を思った。アニーは、私の中に芽吹いた慢心を捕らえ、ヘビー級パンチを決めた。感謝しなくてはいけないが、それにしても、ちょっと効き過ぎた。
私は決まり通り、初日訪問の報告の電話をホスピスに入れた。私は続けたいが、彼女の意向は一度確認して欲しいと伝えた。
「一癖ある人だから大変だとは思うけど、このままで続けて欲しいの。拒絶はスタッフ全員が受けているのよ。何回か訪ねるうちに変わると思うわ。彼女、孤独なのよ。でも、もちろん、あなた自身にだって患者を選択する権利があることだけは忘れないでね」
私は翌週も出掛けて行った。あまり色々考えず、心の中をまっさらにして、初めての訪問をやり直すつもりだった。
そっぽを向くアニーの横に、1時間ただニコニコして座っていた。話しかけても返事はなかった。帰る時、彼女の目を見て挨拶すると、彼女はぶすっと押し黙ったままだった。私は希望を持った。嫌ならば「二度と来るな!」と怒鳴っただろう。『根競べみたいだな』と、思わず笑いながら帰った。
3度目もしたことは同じだった。ただアニーの緊張が解けてきたのを感じた。私もずっと気が楽になる。
『苦労の多い人生を送ってきた顔だな』と横顔を見ながら思っていた。しわが波打つ手の甲を見て、優しかった曾祖母を思い出した。思わずしわをつまんでみたくなった。幼い頃、そうして遊んだように…。時計は、1時間をとうに回っていた。
「じゃあ、また来週来ますからね」
「…来てくれて、ありがとう」
アニーはぶっちょう面のまま、しかしはっきりとそう言った。聞き間違いではない。私は、間の抜けたサンキューを繰り返した。アニーは、そんな私の顔を見て微かに笑った。初めてだった。
アニーとの付き合いは、帰国までの半年間続いた。病状は安定していたが、ボケと難聴は一気に進んだ。「元気ですか」の一言も、廊下の老人たちが飛び上がるような声で何度も叫んでやっと届いた。返事は大抵一言だった。
彼女は無口で、自分から話しかけてくることはほとんどなかった。ただ機嫌の悪い日は、よく怒鳴った。その言葉を私が聞き取れないと、ますます声を荒げた。
私は、毎回、アニーの車椅子を押して彼女の好きなロビーへ連れて行くことになっていた。そこで黙ってぼんやりと
外を眺めている彼女の横に座って2時間、彼女と外を交互に見ていた。私の存在は、ないも同じだった。それでも別れる時、アニーは必ず切ない目で私を見て言った。
「また来ておくれよね」
私はなんとか彼女を喜ばせたいと思い、図書館で借りたきれいな絵本だの写真集だのを持って行くようになった。彼女はどれも表情1つ変えずに眺めていた。彼女がにっこり笑ったのは、1輪の花水木を持って行った時。そして私の子供の写真を持って行った時だった。
「娘の頃、7人の子守りをやってたよ。たばこ工場で働くずっと前のことだね」
アニーは花と子供が好きだった。私はそんな彼女を好きになっていた。それでも、ほとんど耳が聞こえず、話さず、感情を示さず、時々怒鳴り、時々ウンチにまみれている彼女を訪問し続けるのに必要なのは、根気だった。
ある日、いつもの悪臭こもる廊下で若く有能そうな男性スタッフを見た。その施設のスタッフとしては際立っていた。私は思わず目を丸くして立ち止まった。彼も驚いたように私を見、胸のバッジを見た。
「君、ボランティアなの?! ここで?! えーっ、どうしてやってるの?!」
真っ直ぐな態度に好感を持った。
「じゃあ、あなたが、ここで働いているのは、いったいどういう訳なんですか」
私の言葉に彼は声をたてて笑い出した。私も一緒に笑った。彼はそのまま愉快そうにリハビリ室へ、私はアニーの所へ向かった。
同じ施設に通う他のホスピス・ボランティアとも会った。柔らかい印象の30代の女性だった。
「もう2年も同じ人の所に通ってるの。前歯が一本しかないのにフライドチキンが何より好きなおじいさんよ。よく一緒に食べに行くの。毎回たわいもない同じ話をして…。意義深い話は一度もないわね。時々自分でも、なんでこんな所に毎週来てるのかなって思うわ。私って何なんだろうって。でも、思うの。別にボランティアとして来てる訳じゃない。私の顔を見ると嬉しそうな顔をしてくれる友達に、ただ会いに来てるだけなの」
ボランティアであるという意識は、私の中からも消えていた。学びたいことを学んでいるだけだが、人との出会いは楽しく、得るものは膨大だ。しかしアニーでも、がんセンターでも、訪問には多くの心のエネルギーが必要だった。それは無傷ではできないものだった。
がんセンターの病室で初めて会った時、ローラは穏やかな笑顔が印象的な人だった。まだ40代の小柄な女性だ。患者支援活動の説明をすると、かつらが欲しいと言った。集中治療が終わって、今日、一旦退院するが、自分の住む街に、がん患者支援グループがあるだろうかと訊ねてきた。
患者は様々な州から集まっていた。集中的な治療を受けるための短期入院と自宅での静養を繰り返すのが、入院費の高い米国では一般的だ。
彼らを支える支援グループは、全米に無数にある。私は、米国がん協会が、地域の支援グループを調べて連絡先を教えてくれることを伝え、電話番号を書いて渡した。
「あなた、どこから来たの」
「日本です」
「そうだと思った…」
それは何気ない、しかし、それまで誰ともなかった会話だった。人種はプライバシーに関わることとして、日常会話から意識的に消されていた。
話し相手を求めていることを知って、私はベッドの脇に寄り、しゃがんで目の高さを合わせた。彼女は、欲しいかつらの説明を始め、帽子を脱いで髪を見せた。
「こんな色なの。同じ色のがあるかしら」
無残な髪だった。まったくないのは見慣れていたが、まばらな髪は痛々しいと心の奥で思った。彼女は私の心の動きを瞬時に感じ取った。
「…こんな髪に、なってしまって…」
「でも、髪は、必ず元に戻るんですよ」
「戻るまで…それだけ長く、生きていられたらね…」
私はベッドに身体を寄せ、彼女の目の奥を静かに見つめた。
「…あなた…信仰深い?」
「特定の宗教は、信じていません。でも、人間を超えた何か大きな存在は、信じています」
「どんな風に?」
「“神”が、人生の色々な出来事をアレンジしているように思います。たまに、見守られているような気がする時があります」
「たまに、ですって?! いつもよ! いつも!」
彼女は、神を愛し、神に守られていると繰り返した。
「どうして、私が、がんになってしまったのかは分からない。でも『なぜ、私が?』とは、決して問いたくないの。これだけたくさんの人が、がんになっている中で、『私だけは免れるはずだ』なんて考え方、変でしょう? 私を守る神が、私に与えて下さったものだもの。私は、がんを神からの贈り物と思いたいの」
自分に言い聞かせるように語りながら、深い悲しみと不安が、彼女を揺さぶっていた。彼女は、ふと、虚ろな視線を点滴の袋に向けた。抗がん剤だ。
「…これね…。私、治らないんだったら、もう、我慢して続けていく意味はないんじゃないかって、思うの。でも、主治医は、『第三期です』って、言うだけ。ただ、それだけ。…『第三期です』…第三期…」
私は彼女の手の上に、そっと手を重ねた。その手を痛いほど強く握りながら、彼女は治療の苦痛や不安を話し続けた。私は彼女の目を見つめ、うなずきながら、ただ聞くだけだった。その時、ホスピスの患者の姿が、ふいに彼女に重なった。抗がん剤を止めた後、彼女がたどる道筋が、私にはくっきりと見えた。私の胸は、つぶれた。
私は彼女のために祈ることを約束した。彼女は私のために祈ってくれると言った。「神のご加護がありますように」という米国の日常語を、私は生まれて初めて、心の底から言った。
人と触れ合うことを目指しながら、心が触れ合った途端、死が受け入れられなくなる。他人の死は、穏やかに見つめていられる。けれども、友人に一歩近付いた途端、死に向かうすべての過程が忌まわしいものとなる。彼女の感情が、私の血管に流れ込む。それを止めることも、取り除くことも、私にはできなかった。
祈ることを約束しながら、私は、何に向かって祈るのかすら分からなかった。祈りたいと思う。心から何かに祈りたいと思う。でも祈るものがない。手を合わせながら、何に手を合わせているのか分からない。
二度目に会った時、彼女に笑顔はなかった。
「あら、髪、切ったのね。似合うわ。かつら、気に入っているのよ」点滴の管に引っ張られながら、わざわざベッドを降り、かばんから出して見せてくれた。
「今はね、3期から4期で、抗がん剤を止めたら2年から8年の命だって、主治医が教えてくれたの。2年から8年…。でも、この毒で命を長引かせても、意味はないと思うのよ」
彼女はすぐに滑り落ちる帽子を何度も押さえつけた。髪は見る陰もなかった。
「夜ね、眠れないのよ。電気をつけて、聖書を読んでるわ。
変よね。治療する前は元気なのに、抗がん剤を入れた途端に重病人になってしまうの。退院して1週間は、車にすら乗れない。一人暮しなのに、買い物も、料理をする体力もないのよ。今は、教会の仲間に手伝ってもらって何とかなったけど…。
この前ね、退院して家に帰ったら、庭の花が、全部枯れてた…。
主治医はね、『もう仕事には戻れないだろう』って言うんだけど、治療費はかかるでしょ? これからの生活費だって。…いったい何年分必要なのかすら、分からないのに…」
私は、経済的な相談にものるソーシャルワーカーが、彼女の病室を訪ねるように手配することができた。そして、それができることのすべてだった。
「ただ居てくれるだけで違うわ。ただ話すだけで楽になるの」
彼女は何度もそう言った。そのたびに、その言葉は、私を刺した。『この苦しみに、私は、何が言えるだろう。いったい何ができるというのか』。消しても消しても、同じ言葉が、頭の中に広がっていく。時々、彼女は黙ってじっと私の目を見つめた。私は息が苦しくなった。自分があまりにも無力に思える。偽善者に思える。私は、自分が、何をしているのか、分からなかった。私は、彼女の友人ですらない。私と彼女を結んでいるものが何なのか、私には分からなくなった。
感情を病院に置いてくることのできない私に、夫は理由を訊ね、けげんな顔で言った。
「なんで、そんなことしてるの?」
言葉は出なかった。『誰かが、訪ねた方がいいから』と、弱々しく答える自分がいた。私でなくてはならない理由はな
い。他の人の方が、もっとずっと役に立てるだろう。
私は、ボランティア・コーディネーターのジュリーに相談をした。彼女は病院ではソーシャルワーカーとして勤務していたが、心理カウンセラーの資格も持っていた。
「共感は大切だけど、あなたの言う通り、感情に巻き込まれてはだめよ。でも患者との心の距離の取り方を体得するのは、時間がかかるのよ。私も失敗を重ねてきたわ。ソーシャルワーカーの悪い癖でね。患者を精一杯助けてあげたいと思うのよ。でもそれは、患者が持っている『自分で立ち上がる力』を奪い取ることになるの。患者は無力じゃないわ。その患者だって、自分で選択していくのよ。
あなたは患者の良い話相手になってるじゃない。アジア人独特の柔らかい話の仕方も役に立っているんじゃないかしら。医学生のボランティアのほとんどは、患者と話らしい話を一度もしないまま4~5ヶ月で辞めていくわよ。それでも、この経験は彼らにとって大切だと思うから、一目で続かないって予想できても、私から断ったことはないけど。」
私は、普段接触する機会のないベテランのボランティアを紹介して欲しいと頼んだ。話を聞きたいのでと言うと、ある60代の男性ボランティアが来る曜日と時間を教えてくれた。彼は組織ができて以来、8年間続けているという。背の高いその男性は、深い落ち着きのある人だった。
「そうだね。私にも色々なことがあったなあ。
ある時、患者の家族から電話をもらったことがある。患者が私に会いたがっていると言うんだ。夜中だったが、行ったよ。だが、既に昏睡状態だった。『ありがとうと言っていた』と、家族の人が伝えてくれた。
どうしたら続けていけるかって? ただ、単純に続けることだね。苦しい所では決して止めないことだ。苦しくても、続けさえすれば、また素晴らしい人と出会うよ。苦しいことは何度でもあるが、素晴らしいことも同じだけある。ただ淡々と続けていくことさ」
私は力を与えてくれた彼に、深くお礼を言った。
最後に会った時、ローラは変わっていた。
「神の存在を、すぐ近くに感じられるの!神の愛を、全身に感じるのよ!」
彼女の内に湧き上がるものが、言葉となって溢れていた。教会の仲間が、彼女の支えになってくれていると言う。
「私、今まで、こんなにたくさんの人から愛されたことなんてなかった。こんなに深く愛を感じられたことは、なかったわ」
教会で、皆が彼女のために集まって、日の出を祈るのだと言った。
「日本でも新しい年の最初の日の出を祈るんですよ」
「違う場所で、同じ日の出を祈るのね…」
彼女の透き通るような微笑に、私は見入った。わずか数十本残った髪を隠そうともせず、ローラはよく笑い、よく話した。
彼女は私に、生前遺書の証人になって欲しいと言った。私は看護婦の許可を得て、証人の一人としてサインをした。延命治療を拒否する内容だった。
「私は、自然に、死にたいの」
凪いだ海のような静謐さが、ローラを包んでいた。その尊厳の前に、私の感傷は失せた。
「ありがとう。とても感謝しているわ」
私達はお互いを抱きしめ、ただ目を見詰め合った後、無言で別れた。
その人を最初に見た時、初期の患者なのだろうと思った。きりっとした表情。良く通る声。50代のキムは、教師を思わせた。
「私は、患者支援組織には、今までも、今も、これからも、まったく興味がないけど、あなたのしていることは、他のたくさんの人にとって有意義だと思うわ」
「ありがとうございます。では、もし将来、万が一、何かのお役に立てることがあったら、ここに電話をして下さいますか?」
私は、がん患者支援組織の事務局の番号が刷られたボランティア用の名刺を取り出そうとした。
「いいえ。その必要はないと思うわ。私は、すぐ死ぬから」
私は、一瞬表情が止まった。同時に、心の重心がズンと下がって覚悟が決まった。私は穏やかな表情で、黙って彼
女の目を見つめ、次の言葉を待った。
彼女は、きっとした目で、長く私の目を覗いていた。それから、ふっと力を抜いた。
「運がないのね。次々と再発して。腸も腎臓も、どこもここも…。そう遠くない内に心臓も止まるでしょ。…でも、私、死を恐れたことは、一度だってないのよ。ホスピス・ケアを受けることになっているし、何の心配もないの。何もかもうまくいってるわ。兄弟3人、がんで亡くしてるから、私がこれからすべきことも良く分かってる。人は、がんと聞いただけで慌てふためいているでしょ。私は違うわ」
「どうしたら、あなたのように…ご自分をしっかり持ち続けていられるんでしょうか」
「強い」という言葉は、飲み込んだ。強く見える人にも、そうでない時がある。強いと言われるのは、淋しい。
「神を信じているからよ。神を愛しているから。神が、私の運命を、良いようにして下さるから。私は、ただ安心して身を委ねているの。何の心配もしないわ」
そう話しながら、彼女は目を擦った。
「泣いているんじゃないのよ!」
私はうなずき、いたずらっぽく言った。
「でも、泣くって悪くないもんですよ。私、よく泣きます。大っきな声でワーッって。そうすると、気分がすっきりしちゃうんです」
「…そうね…。本当に、そうね…」
彼女の片頬が、一瞬、歪んだ。強気の言葉を繰り返しながら、彼女は、私の差し出した手を握りしめた。私はその手を握ったまま、拳にキスをした。初めてだったが、そうしないでは、いられなかった。
「あなたのことを、神に祈ります」
「そうして。来てくれて、ありがとう。また会いたいわ」
部屋を出た時、「私は、すぐ死ぬから」と言う声がよみがえった。私は走るように病院を去った。
「まあ、ナオミ! 来てくれたのね!」
翌週、病室を訪ねると、華やかな声で迎えてくれた。
「こんにちは。気分はいかがですか」
「最高よ!」
「痛みはありませんか」
「ないわ。とてもいいの。さあ、座って」
キムは私をベッドの上に腰掛けさせ、両手で私の手を握った。
「ああ、あなたが来てくれると、この暗い部屋に陽が射したようよ。陽が全然当たらないのよ、この部屋。…ああ、本当によく来てくれたわ。嬉しい!」
こんな歓迎は受けたことがない。私達は、ただ黙って、お互いに微笑を交わしていた。その時、点滴終了のブザーが鳴った。4つの袋の内の1つが空になっていた。
「大きな袋…なんですね」
「もちろんよ。だって私の朝食と昼食と夕食ですもの。味気はないけど、栄養はたっぷりよ」
処置に来た看護婦は、良い人だった。
「まあ! ちょっと見てよ! 今日は手を握ってベッドに座っていてくれる人がいるってわけ?!」
「そうよ。いいでしょ。ナオミは、この私に会いに来てくれたんですからね。
ねえ。これ、前の病院ではピピピなんて鳴らなかったわよ。『お~神よ~。お~神よ~』って歌ったのよ」
「本当に?!」
「そうよ。ピピピなんかよりずっといいでしょ?『お~神よ~。点滴は終わりました~』って。…私には、いつもそう聞こえたのよ」
看護婦も忙しいだろうに、おしゃべりに付き合い、冗談を連発していた。そのユーモアの向こうに、キムに対する真摯な想いを感じた。キムは忙しい看護婦を去らせないものを持っていた。私達は3人で、どれだけ笑っただろう。
「さ~て。ちょっと向こうの患者を見てこなくちゃ。また後で戻ってくるわね」
「あ~、この重病人を見捨てて、行ってしまうのね」
看護婦の表情と足が、一瞬止まった。
「見てよ、このわがままな患者を! 忍耐ってものを学んで欲しいわね。忍耐ってものを」
「あら。私、忍耐の塊よ。ペイシャント(患者・忍耐の意)ですもん」
看護婦を見送った彼女は、深い一息をつき、それから「うっとうしい」と、腹部に掛かっていたシーツを外した。私は彼女が指し示すまで、その異様に見える腹部に目を向けなかった。見られたい人はいないだろうと思った。
人工肛門と人工尿道。へそのあるべき所に掌大の穴が開いていて、透明なシートの下に真っ赤な臓器の塊が盛り上がっていた。その塊から何本もの管が伸び、それ以外にも太い管が、いくつも腹部の肉に突き刺さっていた。両腕にも胸部にも管はつながっている。
私は、身体の中で何かが崩れ落ちていくのを感じた。話し疲れたキムの横顔は、別人のように生気が抜け、青ざめていた。
私は昼までに、別の患者にかつらを届ける用事があった。来週、また来ることを伝えた。
「来週?! それまでには退院していたいわ。病状も落ち着いてきたから、逃げ出すなら今しかないと思うの。それを逃したら、もう2度と…。何が何でも家に帰らなくっちゃ」
「…必ず退院できるように、私も祈っています。…でも…私は…」
「抱きしめさせて」
私達は、お互いを抱きしめた。私の頬にキスをする彼女の身体には、筋肉がなかった。
燃える紅葉が、再びこの街をおおっていた。その秋、その色は、痛かった。異様に美しい木々を見つめていると、愛おしさが込み上げた。私は、抱きしめて、叫びたくなる…。
キムは、家には、帰れなかった。最後に会った時、私の顔は覚えていたが、それ以外のことは何も覚えていなかった。がんは、脳に転移していた。もう話す力すらない。痩せて、ベッドにぺタリと張り付いているように見えた。私は、意識のもうろうとする彼女の手を、言葉なく握っていた。それは、ローズやポール達と同じ凍った手だった。
焦点の定まらない目で宙を見ていた彼女は、ふいに私を見て、ゆっくりと微笑んだ。
「…温かい手…。…なんて…温かい手…」
ハロウィーンが近付いていた。子供達が思い思いに仮装して、夜、かぼちゃ灯篭の灯る家々を巡り、お菓子をもらう祭りだ。治安のため、夜道を歩き廻るのは、1年に1度のことだった。
「ハロウィーンは、死の祭りよ。死と手をつなぐための、死の予行練習なの…」
がん病棟で、ある末期患者は言った。閉じられた厚い扉の向こうには、いつも、治っていく患者と死んでいく患者がいた。死は、厚い壁に隠されているが、いつもそこにあった。
病棟は、かぼちゃ灯篭などで楽しく飾り付けられていた。それもボランティアの仕事だ。がん病棟で活動するボランティア組織は1つではない。犬好きの患者を犬と共に訪問する人々、コメディー映画のビデオをビデオデッキと共に貸し出す人々、手工芸を指導する人々、病人に見えない化粧法や頭髪を美しくカバーする方法を教える人々、宗教が違ったり、病院内にある教会にも行かれない患者のために病室でミサをする人々など、大学病院全体で、66種類、約600人のボランティアが、活動していた。
米国で3才と5才になった子供達は、私の作ったお化けの衣装を着る日を楽しみにしていた。次男には、その日が一足早く訪れた。保育園の行事で老人ホームの慰問をしたのだ。手作りの衣装を着る子は他にはなく、こぎれいにライオンや人魚等に仮装した3歳児達が、車椅子に乗った痴呆の老人達と握手をして廻った。
その夜、私が長男に慰問の様子を話していた時だ。黙っていた次男が、突然恐い顔をして言った。
「あのおばあちゃんたち…死ぬの?」
「誰でも、年をとったら、死ぬんだよ」
私は、できる限り自然に穏やかに答えた。
「お母さんも、死ぬの?!」
「みんな…いつかは、死ぬんだよ」
泣き出しそうな子供の目を見ながら、一瞬言葉を探したが、そうとしか言えなかった。
「アッキ、死にたくない! だって、死んだら骨になるもの。お墓の中は暗くて、何も見えないよ。…死にたくない! 死にたくないよ!」
怯えた表情の悲痛さに、私は、胸を突かれて言葉を失った。その時、5才の長男が、不思議に澄んだ表情で、穏やかに話し始めた。
「アッキ、大丈夫だよ。死んだら、天国へ行くんだよ。そうして、また、生まれるんだよ。それを繰り返すんだよ」
その言葉は、温かい雨のように私に降り注ぎ、深く染み込んでいった。
『本当に、そうなのかも知れない』
私は、祈るように思っていた。
次男は、安心して眠りについた。それからは、死を無闇に恐がることはなかった。
りすの姿も消えた静かな冬、がん病棟で、私は次々と忘れられない人々と出会っていた。
「私の人生は、たくさんの素晴らしい人達と共にあったの。良い人生を生きることができて、幸せだった。…私は、人間が、好きよ。」
温かい眼差しで、静かに微笑んだ老婦人がいた。
「少し人とおしゃべりがしたいと思っていたところよ。今日は、とても気分が良いから」
そう穏やかに言った彼女は、残された時間を知っているかのように、84年の人生を語り聞かせてくれた。
病状が良くないことは一目で分かっていた。長く話させてはいけなかった。
「少し、休まれますか?」
途中、何度もそう訊ねた。
「いいえ。心配なさらないで。自分の身体のことは良く分かるわ。時間はとても貴重なの。こんなに楽しいお話しの機会をお昼寝と交換するだなんて、とてもできないことだわ」
子供の頃の話を、彼女は、生き生きと話して聞かせてくれた。
「まるで『大草原の小さな家』のお話のようですね」
「そう。ほんの少し昔までは、あんな日々の暮しが、確かにあったのよ」
ご主人は、農地の開拓から始め、事業を広げていったという。
「夫はね、私の人生で出会った男性の中で、人間として、最高の人だったの。それに、本当のことを言うと…1番ハンサムでもあったわ。3年前に亡くなってしまったけれど…。愛しているわ…今も。心から尊敬しているの。永遠に…」
ご主人との出会いを話す時には、少女のようにはにかんでいた。人は、自由に時を越えられるのだと知った。死に、人の絆を断ち切る力などないということも。
彼女の口からこぼれるすべての言葉には、透き通った輝きがあった。否定、批判、後悔、悪口、恨み言。彼女の世界には、そのどれも存在していなかった。温かいものにすっぽりと包まれるような心地好さの中で、私は、心のおりが洗い流されていくのを感じていた。彼女の顔に深く刻まれたしわの一本一本を、私は、美しいと思って見つめていた。
翌週、訪問者リストに彼女の名前を見て、真っ先に跳んで行った。元気に扉を開くと、カーテンの引かれた暗い病室で、彼女は、死の床にあった。
数え切れない管。微かな呼吸。彼女につながれたモニター画面の赤い帯が、薄闇の中で、音もなく伸びたり縮んだりしていた。
私は声も出ず、ベッドに寄ることすらできず、その場に突っ立っていた。
『そんな顔をしないで。私は、良い人生を生きたのだから…』
不意に、彼女の柔らかい声を聞いた。彼女の存在が病室一杯に広がり、静かに私を包んだ。
「医者が言った余命なんて、とっくに過ぎちゃったわ。私ね、その日、買い物に行って、色んな人に言ってやったわよ。『今日は、私が死ぬはずだった日よ!』って。
私、自分でも、全然死ぬ気がしないのよ。ねえ、医者が『死ぬ、死ぬ』って言ってるのに、死なないってことは、神様が、私に何かをさせようと思って生かしているってことでしょ? 違う? そうよ。私、こんな所で寝てる暇なんてないのよ。それを探さなくっちゃ。きっと探し出さなくっちゃ」
そう話す40代の女性と、彼女の未来について語り合った。彼女は、まず、がん患者支援グループで他の患者たちを勇気付ける話をしたいと言った。手記も書いてみようと言った。
「私、奇跡って、きっとあると信じているの。誰だって、いつかは死ぬわ。私だって。でも、それは、今じゃない。いのちの長さを知るのは、神様だけよ。医者なんかじゃないわ。
私だって、落ち込む時はあるわよ。もうだめだって、何度も思った。でも、いいのよ。それで。辛い時は、辛い。しばらくしてから、また立ち上がればいいのよ。
ねえ。この前来た訪問ボランティアの人、私の話を聞いて泣いてたのよ。可笑しいでしょ? 全身がんだらけの人間だって、普通に生活をして、元気に楽しく生きて、新しいことに挑戦することだってできるってこと、彼女、知らなかったのね」
長く濃い会話の最後に、彼女は言った。
「ねえ。最後にもう1つだけ、いい? お箸の使い方、教えてくれる?」
骨髄移植病棟で、再発を告げられた直後の20才の女性と、その母親に会った。
死んでいこうとする妻を前にして、呆然と独り言を繰り返す40代の男性と会った。
身をよじり、悲鳴を上げ、うめき、すすり泣く30代の男性と、その母親に会った。
それぞれの病室で、私は、そこに長く留まった。誰とも面識はなく、邪魔ならば、直ちに出て行くつもりだった。だが付き添っていた家族達は、無防備に私を受け入れた。全身が崩れ落ちていくような時間の中で、ただ一緒に、そこに、「いる」人間を求めていた。
できることなどない。かける言葉もない。ただ、一緒に悲しみ、一緒に泣いていた。
病室を出た時、私の存在の奥底から、凶暴な、凄まじい怒りが噴き上がるのを感じた。
『なぜ、こんな苦しみがあるのか』
『なぜ、死ななければならないのか』
ホスピスで受け入れたと思っていたことを、実は、何も受け入れていない自分を知った。何も納得していない。何も知っていない。私は、問いの振り出しに放り出されている。
森のあちこちには、州の花、花水木が、そこだけ雪を積もらせたような純白の姿を見せていた。それを合図に、大地から、木々の枝から、音もなく、何ものにも妨げられることなく湧き起こる生命が、私を圧倒する。
病院には四季がないが、外は、歓喜の季節だ。新緑で潤った野に、彩りの卵を探して、子供達が駆け巡るイースター(復活祭)も、もうすぐだ。
待ち切れなかったように、週末には、家族でピクニックに出掛けた。がんセンターの裏にある広大なデューク・ガーデンも、豪華な1日を楽しめる場所だ。子供達は、バラ園も満開の桜の木々も駈け抜け、父親と広場を転げ回り、木登りをし、池のがちょうに餌をやっていた。
その池で、死にかけた魚を見た。腹を上にして浮かぶ魚のあごが、不規則な長い間を置いて、引きつるように動くのを見た。その瞬間、恐怖が全身にからみ付き、私は動けなくなった。
それは、人が死ぬ時の呼吸そのものだ。どんよりと濁った目は、もう何も見ていない。魚は人間の大きさに膨れ上がり、私の目の前に、死を剥き出しにしていた。
春の陽の中で、私は、知った。私は、死が恐いのだ。ずっと以前から、人以上に、死を恐れていたのだ。そして、死への恐怖は、多分、私の中から消えることはないのだろう。
死を「美しい」とは、言えない。どんなに安らかな死を見ても…。死は、崇高であり、醜悪だ。きっと、脂と血にまみれた誕生と同じように…。
死の意味、苦悩の意味を問うことを、私は、止めることができなかった。患者は、たくさんのことを教えてくれた。けれども一人の患者のくれた答えは、違う患者の違う苦悩によって突き崩された。『いのちには、限りがある』。ただそれだけが、私の知った何よりも確かな真実だった。
そしてある日、問いは、くるりと向きを変えた。予期しなかった問いが、私の正面に大きく立ちふさがった。
「なぜ、お前は、生きているの?」
当たり前のように健康で、当たり前のように障害もなく、当たり前のように生きている。日本に帰れば、当たり前のように以前からの生活、以前からの仕事・活動に戻るはずだった。
けれどもすべての「当たり前」は、私にとって「当たり前」ではなくなっていた。20代のエネルギーと時間を投入して築いてきたキャリアすら、振り返れば、霞んで見えなくなっていた。それが生活であり、生きがいであり、天職だと信じてきたものなのに…。
私は、道も自分も完全に見失った。自分は、何者でもないと感じた。
何も見えない日々の中で、やがて何かがゆっくりとうねり始めた。さなぎが姿を変えていくように、自分が何か別のものに変わっていってしまう予感に、私はたじろぎ、揺れた。自分の中に起こっていることが、私には理解できなかった。恐ろしかった。
しかし、私は、その何かをそのままに受け入れようと決めた。この2年間の経験から生まれ出ようとしているものが、醜いものであるはずはないと信じた。
それは、私の頭からでも心からでもなく、私の身体の中から現れた。私は、病み、苦しんでいる人達と一緒に生きていきたいと思った。それができる力を付けるために、帰国後は、大学で学ぼうと思った。気負いはなかった。ごく自然に、『そうしたいから、そうしよう』と決めた。
高校生の時、大学進学というコースを選ばなかった私が、1から始めるのは、時間とエネルギーの浪費ではないかと忠告してくれる人がたくさんいた。けれども、高校の時、意味がないと思った受験勉強すら、その時の私には、何でもないことに思えた。
自分のいのちを納得のいくように使いたいという気持ちだけは、心の地盤にびっしりと根を張っている。それは自分を最優先させるわがままだ。しかしそこから出てくるものは、不思議としなやかで、無理がない。「がんばる」という言葉から、私は、とても遠い所にいた。
私は焦らなくもなった。私は長い間、明日のためにと、いつも走っていた。でも、今日の自分を受け入れることも、今日の生活を慈しむこともせずに、ずっと来た気がする。いつも時間を惜しみ、時間を気にしていた私が、まったく新しいことを学ぶために、残りの30代をすべて費やしても少しも
